2013年8月30日金曜日

ケネス・ポメランツ/スティーヴン・トピック『グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界 』

たいへん怖ろしい本である。アメリカ歴史学会の会長を務めるポメランツ氏(中国近代史の研究で名高い)とカリフォルニア大学歴史学部教授のトピック氏(植民地支配下のラテンアメリカの研究者)の共著。15世紀以降、悪辣なヨーロッパ商人が世界に進出し、他国を植民地化し、世界がグローバル化する中で、海賊行為、略奪、奴隷貿易、植民地の搾取、農業の商業化によるモノカルチャー、そして暴力的戦争などが繰り返され、如何に巨大な貧富の格差を生み、如何に悲惨な出来事を引き起こしたかということを、これでもかこれでもかと示してくれる。これはすべてあらゆるものを商品化する「グローバル貿易」がもたらしたものであるという。記述が具体的であり、きっちりドキュメンテーション化されているので、とても説得力がある。「TPPハンターイ」派がこれを読めば、身を捩らせて喜ぶこと請け合い。

グローバル経済の誕生: 貿易が作り変えたこの世界 (単行本)

確かにあの時代の搾取には目を背けたくなるものが多く、マルクスならずとも資本主義・市場主義を弾劾したくなることは事実。上記は表紙の写真だが、ついこないだまでのブラジル金鉱山で奴隷労働を強いられていた労働者の群れだ。気持ちが悪くなる。

いちいち例を挙げないが、始めから終わりまで、この手のお話しでいっぱい。西欧の資本主義の発展もこうした植民地搾取による原始的資本蓄積があってはじめて可能になったという。ヨーロッパ人は本当にワルイ奴らだという気がしてきた。

しかし、である。話を15世紀以降に限定するのではなく、もっと長いスパンで歴史を振り返ってみるとどうだろう。例えば「栄光の時代」といまだに崇められているギリシャ・ローマ時代でもいい。当時の奴隷制度はどんなものであったのか。人口の半分が奴隷であったのだ。奴隷の中には家事労働に従事するめぐまれた奴隷もいたことはいたが、大部分は上記の写真のような凄惨な状況で働かされていた。戦争は勝者による敗者の略奪と奴隷化であった。アテネの将軍はミーロス島に行って、アテネはあなたたちより強いのだから、あなたたちはみんなアテネの奴隷にならねばならない。それはものの道理であると言い切った(ミーロス島住人は抵抗したため老若男女を問わず全員虐殺された)。シーザーがガリアでいかほどの大量虐殺をやったかはシーザーが自分で書いているとおり(ガリア戦記)。アッシリア、エジプト時代まで遡るともっとひどいし、植民地化された方の歴史を見てみても新大陸のアステカ帝国は狂気の殺戮を日夜儀式化して繰り返した。中国においても日本に於いてもいくらでもこの手の例を挙げることが出来る。狂信と暴力はグローバル貿易とは関係のない人間の本性なのではないか。大航海時代はたまたま航海術と造船技術がヨーロッパで飛躍的に進歩したおかげで、いままでは西欧ローカルスタイルのこの種の略奪と暴力が世界に広がりグローバル化して、今までのそれぞれの地域固有のローカルスタイルの略奪と暴力の伝統に置き変わっただけの話ではないのか。

もちろん、彼ら(ヨーロッパ人)の残虐行為を正当化するつもりなぞさらさらないけれど、ヒトという動物は放っておけば必ずこうした行為に走るものであるとの印象を今さらながら強くした。だからこそ牽制機能が必要なのである。個人の暴走は法律で牽制する。国家の暴走は憲法で牽制する。企業の暴走は独占禁止法で牽制する。人類はヒトのこのような性向を知った上で、数々の牽制システムを完成させてきた。それが文明というものであろう。ヒトの知恵もまんざら見捨てたものでもないのである。

2013年8月26日月曜日

ヴェルナー・ゾンバルト『恋愛と贅沢と資本主義』(講談社学術文庫)

タイトルが面白そうだったので読んだら、きわめて真面目な本であった。貴族社会の放蕩息子たちの女性誘惑のために行った際限ない浪費と、カッコヅケと見栄と顕示欲に基ずくアホらしい贅沢消費パターンが、徐々に大衆化(ブルジョワ化)していったことこそが、現代資本主義を発展させる鍵となったという分析。具体的詳細なデータが散りばめてあって、その意味では楽しいけれど、マックス・ウェーバーの言うプロテスタンティズムの勤勉さこそが資本主義を発展させたという「正しい」理論とはまるで逆ではないか。著者はウェーバーと同時代のドイツ人だというのだから恐れ入ります。でも言っていることが一理も二理もある。資本主義というものが急に胡散臭いものに見えてきてしまった。考えさせられる一冊である。

恋愛と贅沢と資本主義 (講談社学術文庫)

贅沢消費が経済を発展させると言うことは事実。安倍のボクちゃんも同じことを目指している。ヴェブレンがいうように中世から近代にかけて急増した経済的生産物とはそのほとんどが衒示的消費のための贅沢品だったから、現代社会で言う「消費」とは当時の「贅沢消費」と変わらない。それが経済全般を引っ張ったことも事実だろう。贅沢品の製造には手間暇が掛かる。雇用も生みだした。しかし逆に河上肇が言うように、それは経済全体の生産資源の配分を歪な形にしてしまったことも事実。でも結果オーライだったこともまた事実。頭が混乱してくる。

しかし重要な点が残されている。いくら贅沢をやろうとしてもおカネがないと贅沢は出来ない。原資となるおカネはどこから来たのかと言うこと。著者によれば当時の贅沢消費の担い手は、1)王侯貴族、2)地代収入を得ている地主階級、3)税金を回して貰っている公務員階級(僧侶、司法関係者なども含め)、3)国債金利収入を得ている資産家・金利生活者、4)香辛料・砂糖などの贅沢品貿易と奴隷貿易で儲ける貿易業者、5)最後に(意外と小さい割合で)製造業者、商人ということ。国の借金が膨らめば膨らむほど贅沢消費が活発になり経済が発展するという理屈だ。まるで現代ニッポンを見ているようではないか。しかし一般庶民におこぼれが回るのは遙か先のこととなる。そのくせ、一般国民は、税金と地代の支払いに追い立てられ、宣伝に惑わされ必要以上に高い物を買わされ、必要あればお偉方の海外利権を守るための戦争にかり出されるのだから、たまったものではない。なんだか胡散臭いシステムである。

経済学とはまことに陰鬱な学問なのでありました。

2013年8月22日木曜日

ニコラス・ウェイド『宗教を生み出す本能 進化論からみたヒトと信仰』

とても真面目な本。こんな本を読むのは普通真面目な人に限られるので、おいらみたいないい加減なオッサンが読むのは場違いだが、最近この世の中に蔓延する合理性のない集団心理や「空気」、それに他集団に対する攻撃性なんかに辟易することが多く、この集団心理はひょっとしてホモサピエンスに生まれつき遺伝的に備わっている思考回路じゃないかと思ったのがこの本を読み始めたきっかけ。読んでまさにその通りだと言うことがわかりました。ヒトはもともと集団的で狂信的なのだ。

下にあげた表紙の写真をご覧あれ。これこそホモサピエンス〔ヒト)の集団の姿。その勇敢さと強さと野蛮さを雄弁に物語っているではないか。「宗教は人類生存のために(このように)進化してきた」ことを、著者は生物学、社会科学、宗教史を縦横に駆使しながら説明する。科学ジャーナリストが書いた本だけあって、一つの分野に閉じこもることがなく、異論が存在する学説〔仮説〕も公平に客観的にそれぞれ紹介して行く。裨益するところ多大。
宗教を生みだす本能 ―進化論からみたヒトと信仰
印象深かった点は多々ある。例えばアフリカを少人数で脱出したホモサピエンスは身体能力的に同等以上の力を持ち圧倒的多数でヨーロッパに君臨していたネアンデルタール人を如何にして食い尽くすことに成功したのかなど。考古学の成果。35000年前のホモサピエンスの遺跡〔ドイツ〕から角笛が発見されたのだ。当時のホモサピエンスは既に音楽を持っていた。音楽はすなわち舞踏であり、舞踏は狂信的高揚(トランス)による集団の結束をもたらす。それが宗教。それでもって上の写真のように結束し一気にネアンデルタール人を壊滅させたのだ。宗教の力はすごい。現代社会でも〔旧日本帝国軍隊の例をとるまでもなく〕狂信的原理主義的集団は強いのである。

同時に宗教は集団内部の福祉にただ乗りする「フリーライダー」を排除したり〔厳しい戒律と通過儀礼、さらに村八分〕、商取引のベースとなる集団内部の信頼を生み出したりして〔ユダヤ人のダイヤモンド商人〕、資本主義商取引社会の発展をもたらすという平和的メリットもあった。

このような宗教の特性はヒトが文化的に後天的に修得したものではなく、原型は類人猿の時代から存在し〔道徳〕、それが遺伝学的に進化してきたものであるという。少なくともそういう学説が現在では主流であるらしい。ダーウィンの「集団選択」理論の復活だ。また無神論者のリチャード・ドーキンス〔『利己的な遺伝子』の著者〕に対する痛烈な批判ともなっている。とても知的刺激に富む本で、大いに勉強になりましたです、ハイ。

2013年8月18日日曜日

ツヴァイク伝記文学コレクション2『ジョゼフ・フーシェ』

フランス革命からナポレオン帝政、更に王政復古まで、めまぐるしく大変化が続いたあの時代、僧院教師でありながら教会を裏切りそれを破壊し、穏健主義の地盤で議員に選ばれたに拘わらず王党派を大量虐殺し、熱烈な共産主義者のくせにフランス一の富裕な公爵に成り上がり、ナポレオンに徹底的に疎まれながらも最後までナポレオンの側近であり続け、しかも最後は恩人のナポレオンを裏切り、ルイ16世の斬首の責任者でありながら弟ルイ18世が王政復古しても大臣に居座るなど、裏切りと変節の限りを尽くし最後まで政治の中心部に居残る。いまだに無節操極まりない冷酷の悪漢、嫌なやつの代表と思われているジョセフ・フーシェの伝記だが、何度も訪れた絶体絶命の修羅場で、冷徹な判断と恐るべき生存本能で「危機一髪」斬首を逃れるフーシェの生き様は、まるでスリルいっぱいのサスペンス小説を読むようだ。鹿島茂も同じテーマで本を書いているが〔『情念戦争』)、こっちの方が格段に面白い。ツヴァイクと鹿島茂の筆力の差だろう(鹿島先生ごめんなさい)。

マルクス、エンゲルスの『共産党宣言』の半世紀も前に、フーシェは、それ以上に完璧な「フーシェ版共産党宣言」を発表していた。これはちょっと驚き。フーシェには理想とか理念というものは一切なかった。だから共産主義も便法でしかなかったはず。だからこそ雄弁になれたのだろう。人生は舞台、人間は役者。役者の方が本物らしく見えるという実例。

同時にこの本で雄弁に描写されるのは、ナポレオンのすごさ。ナポレオンの偉大さは戦場での勝利にある以上に、緻密な数学的緻密さと勤勉さでナポレオン法典などの制定を通じてフランスを近代国家として建設したことにあることがわかる。ナポレオンは並の人物ではないだけにフーシェの有能さは理解していた(だからこそ大嫌いだったけれど使い道があるフーシェを、敵に回さないためにも最後まで自分の部下として抱え込んだ)。

タレーランも基本的に「勝ち馬乗り」御都合主義者である意味でフーシェと同じであるとの記述も面白かった。でもタレーランはネアカだったために、いまでも評判のいい偉人である。フーシェはネクラ。人生、ネクラは常に損をする。さすがのフーシェも晩年は惨めだった。これ人生訓。

ナポレオンもロベスピエールも、あれだけの大天才だったにも拘わらず、最後の土壇場で一瞬の優柔不断が運命を分ける。フーシェを追い詰めギロチンにかけようとしたロベスピエールは最後の土壇場で大逆転され、逆にギロチンに掛かる。ナポレオンも最後の土壇場で列強との妥協のタイミングを逃し、フーシェに裏切られる〔フーシェによればナポレオンはフーシェに裏切られたのではなくワーテルローに裏切られたらしいが)。出来過ぎみたいな話だが、これまた人生訓としても面白い。

感心するのはあの時代、あれだけの物的破壊を繰り返し、数百万人の人的犠牲を払いながら、フランスが経済的に急速に発展したこと。パリを中心とした全ヨーロッパにまたがる文化的帝国主義圏〔文明〕が完成するのだ。まさにシュンペーターの言う「創造的破壊」である。古くさいものを大切にするだけでは国はジリ貧に陥るのである。これは経済史的教訓。


ジョゼフ・フーシェ―明日の歴史 (ツヴァイク伝記文学コレクション2)

2013年8月16日金曜日

河上肇『貧乏物語』〔岩波文庫〕

これはわが国が誇りうる経済学の古典ですよ。外来理論の翻訳に終始してきた「ニッポンの経済学」の伝統のなかで、はじめて世界的にもユニークな独創性のある経済理論が生み出されたのだ。さすがは京都学派である。しかし〔今もそうだが〕外来理論翻訳こそ命と信ずる当時の日本の経済学者の間では極めて評判が悪く、河上はさんざんに冷笑と嘲笑をあびた。岩波文庫本で解説を書いているわが国マルクス経済学の大御所大内兵衛もその解説の中で「極めて未熟な理論」とバカにしている〔バカにするぐらいなら解説なんか書くな〕。でも彼らの河上批判の根拠は河上理論は「十分にマルクス的じゃない、マルクス理論をもっと勉強しろ」という程度のものだから、無視していいようなもの。むしろ勲章みたいなもんだ。

さて河上肇の『貧乏物語』だが、当時わが国及び世界で蔓延していた労働者の貧困問題をどう解決するべきかという問題を、河上肇が長年に渡り真面目に真剣に考え考え抜いた結果の労作なのである。西欧の理論はもとより東洋哲学の考え方も濃厚に反映されている〔この辺がハイカラなマル経学者が気に入らなかったところだろう〕。解決策として河上は所得再分配政策や、国家社会主義的な産業政策も検討するが〔これらの政策にはかなりの魅力は感じながらも〕一番現実的で効果的な政策は別にあると提案するのだ。なんとそれは「金持ちが贅沢しないことこそが貧乏退治の第一の方策」という有名な命題だったのである。ハイカラなマルクス経済学信奉者たちがこれを聞いて拍子抜けであんぐり口を開けてしまった表情が目に浮かぶようで実に愉快。

河上は言う。貧乏人は生活必需品の購入が十分に出来ない。貧乏人でも生活必需品は潤沢に買えるようにしなければならない。でもそれが出来ないのは生活必需品の生産が十分に行われていないからだ。需要があるのに生産が行われないのは、社会の生産能力が生活必需品以外の贅沢品の生産に向けられてしまっているからだが、これは金持ちがカネに任せて贅沢品を需要することから起こる。金持ちをして質実剛健の生活を送らせるべきである。そうすると贅沢品の需要は急減し、社会の生産能力は生活必需品の生産に向けられることになり、貧乏人は安い値段で生活必需品を十分な量だけ購入することが出来る。これこそ貧乏退治の秘策である、と言うもの。

合理的である。理屈が合っているから。河上理論を現代経済学的に解説してみるとなお一層その合理性と整合性がわかる。つまり経済全体の生産量はコブ・ダグラスの生産関数で決まる。全要素生産性が一定であれば資本と労働の投入量が総産出量を規定する。資本と労働は無限には存在しない有限〔稀少〕生産要素である。よってその生産要素の「合理的配分」がなされるべきである。もちろんレオンチエフの行列式〔産業連関表〕を活用し、人為的に各生産部門への生産要素の配分を行うことでもそれは可能だが、これはあまりに社会主義的であり望ましくない。よって需要サイド〔それも一番多く購入する金持ち階級〕の消費パターンを道徳的・倫理的指導により改善することで〔贅沢品を買わないようにさせることで〕稀少な生産要素を望ましい生産部門に誘導することが一番望ましいと言うもの。

この処方箋は日本の特殊文化に非常にフィットしたものでもあった。この河上論文は最初大阪朝日新聞に連載されたものだが、連載中から異常に大きな反響を呼んだ。本に出版されるとたちまち大ベストセラーとなった。大阪商人の「始末始末」の精神に合致している以上に、徳川時代からの武家の伝統文化にも合致するものであったからだろう。直江兼嗣とか徳川吉宗の政治はこの河上理論の実行にほかならないではないか。

河上が対象とした当時の「絶対的貧困」はもはや現代日本では見あたらない。でも河上理論を「無駄なものの生産に稀少な生産要素を投入するのではなく、有意義な価値のある分野に生産能力を振り向けることこそ経済発展に必要なことである」と読み替えれば、河上肇の処方箋は病める現代ニッポン経済にほぼ100%そのまま使える有効なものだ。テレビのCMを見ても実に下らないなくてもいい商品でニッポンは溢れかえっている。単に生産性の悪いだけの旧態依然の商品を「拘りの手作り」とかいって有り難がる風潮も蔓延している。ああいう無駄を省くだけで十分に効率的で競争力のある経済に再生させることが出来るだろう。

日本では社会のエリート〔サムライ〕が質実剛健生活スタイルをよしとしてきた歴史がある。このような文化は〔少なくとも産業革命以降では〕日本だけだ。日本は江戸時代からずっとこんなやり方で経済を成長させてきた。このやり方では産業革命のような革命的ブレイクスルーは無理だが、そこそこ凌ぐことは出来る。日本ではニッポン人の分限を弁えたこんな地味な経済政策が望ましいのかも知れないと最近考えることがある。

大正時代にして、既に日本にもえらい経済学者がいたということを知って、大いに心強く思った。量も少なく読みやすいので寝転がって読める。楽しい。


貧乏物語 (岩波文庫)

2013年8月15日木曜日

ブランコ・ミラノヴィッチ『不平等について ーー 経済学と統計が語る26の話』

非常に興味深いデータがいっぱい詰まっている本。著者は世銀のエコノミストとして25年間にわたり「不平等」について研究を続けてきた人。最近の統計学の進歩には目を見張るものがあり、同一国国内の所得分布に限らず、いままで不可能とされていた地球規模での、更に時系列で歴史的にも、細かい実質データが明確になりつつあるのだ。この本では、1)特定国国内での所得資産の不平等、2)各国所得水準の国際比較での不平等、3)さらにグローバルに地球レベルで個人間の所得資産の不平等〔1と2を合わせたもの〕について現状と傾向が明らかにされる。裨益するところ多大。

特に興味深いのは上記3〕のグローバル個人比較での不平等である。地球に住む個人の豊かさは、ほぼ100%その出身地によって規定されることが明らかになる〔インドに生まれた人はどんなに努力して国内で裕福になろうともアメリカ人の低所得者層よりリッチになれないとか。同じことが日本とバングラディッシュでも言える〕。従来「不平等」を取りあげて問題視する人は常に「国内での」不平等を問題にしてきた。国際間の不平等は「これは市場が決定するもの」として逃げるのが通例。国内では「格差をつくり出すもの」として市場を否定し、グローバルには市場を肯定するご都合主義がまかり通っているのだ。この本で明らかになるのは、有り体に言えば先進国の労働者が低開発国の労働者を搾取しているという構図である。これは我々にとってはまことに寝覚めの悪い「厳然たる事実」である。

「不平等是正」とか「格差是正」問題についての議論は往々にして毒を含む。必ず嫉妬心にもとづく再分配の議論に繋がるからだ。国内にだけ目を向けて「格差是正」を叫ぶことで「正義の味方」を気取れても、グローバルに同じことをする勇気のある人が少ないだろう。しかし、グローバル化がこれだけ進行しているなか、世界人口の大部分の人たちが「不平等」問題に過敏になりつつある。自分が再分配を受けるつもりになって「格差是正」の世界を実現させれば、再分配を受けるなんてとんでもない見当違いで、自分は再分配をしなければならない立場であることに気がつく人がなんと多いことか。

経済理論としても、過去の格差問題に関する経済学分野での成果が要領よくまとめて紹介されている。この本はお薦め。


不平等について―― 経済学と統計が語る26の話

2013年8月11日日曜日

井野瀬久美恵『大英帝国はミュージック・ホールから』

これはとても楽しい本。なんせ19世紀末のロンドンの娯楽の殿堂「ミュージック・ホール」について、その始まりから終わりまでを、その人気のスター、流行った歌と曲目、客受けを狙い頭を絞る興行主の成功と失敗、その客筋の構成と変化、愚かな大衆を善導しようとするインテリ・ミドルクラス・エスタブッシュメントによる規制、むしろそれを利用しようとするイギリスの政治家連中、当時のイギリスがおかれていた国際情勢、社会階級分化の実態など、もちろん有名な「ジンゴイズム〔衆愚的おクニ意識、絆意識とでも言うか〕」の分析も含め、実に盛りだくさんの領域にまではみ出しみごとな分析がなされます。めちゃくちゃ面白い。古い本なのでも古書でしか手に入らないけれど、十分楽しませてくれること請け合い。

なんとなく現代ニッポンのバカテレビ放送に似ていると思った。テレビは大衆が望むものを常に提供すると同時に当局の規制の下にある。当局は基本的に無知な大衆を啓蒙善導するのだとかと言っているが、やがては無知な大衆こそが世論の空気を支配し、政府はそれに引きずられることとなる。事実、ロンドン民衆のジンゴイズムが大英帝国を無益な泥沼の戦争に追い込み、やがて大英帝国の没落が始まるのだ。それにつれてミュージック・ホールも衰退し、タレント芸人はアメリカに移住し、やがてハリウッドがロンドンに代わり新しい帝国規模の「ミュージック・ホール」へと選手交代する。それに較べればニッポンの「クール・ジャパン?」なガラパゴス的ミュージック・ホールはまだまだ可愛らしいものだが、閉鎖社会であるだけに結構な影響力を持っている。他山の石とするべきだろう。


大英帝国はミュージック・ホールから (朝日選書)

2013年8月7日水曜日

ツヴァイク全集16『マゼラン、アメリゴ』

ツヴァイクを読むのがこれがはじめてだが、実に面白かった。いままで読んだことがなかったことは人生の損失だったと思うくらい。 マゼランの世界一周航海は有名なので航海者としての偉大さはよくわかっているつもりだったが〔あのマゼラン海峡を海図とGPSなしで通過できたことは奇跡に近い〕、それ以上にプロジェクト準備と全員の統率に実に緻密で果敢な判断力を発揮した戦略家であったこともこの本でわかった。母国ポルトガルで国王に疎んじられ、ライバルのスペインに企画を持ち込み成功するが、母国からは裏切り者扱いされ、スペインでは成り上がり者だとして既得権階級から徹底的にいじめられ、サボタージュと妨害行為が横行する四面楚歌の中で、マゼランは着々と出発の準備を進める。積荷の詳細リスト作成から荷積みの際に樽一つ一つまで自分で点検した。乗組員も自分では決めることが出来ず、信頼できるものはほとんど居ない状況のなかで、いい加減な天文学者がでっち上げた全く誤った海図だけを頼りに非常に過酷な航海をはじめるのだ。しかし彼の企画のベースとなっていた秘密の海図が間違っていたことがわかる。お目付役のスペイン人貴族たちは秘密海図の公表と針路についての公の議論を要求する。マゼランは絶体絶命。その中でマゼランは天才的な統率力を発揮し土壇場での大逆転に成功するのだ。まるでサスペンス小説のよう。不幸にして成功を目前にしてマゼランはフィリピンで死ぬ。彼の意志は生存できた乗組員〔マゼランに最後まで非協力的だった〕によって貫徹されるが、しょせん死んでしまったらお終い。栄光は裏切り者たちが独占することとなる。歴史が勝者によって書かれるのは現代と同じ。でも天網恢々疎にして漏らさず。いまやマゼランの偉さは誰でも知っている。何世紀かかるかわからないけれど、やがては真実が明らかになるのだ。

細かいこと。マゼランは積荷の中に大量の釣り具と漁網を入れている。当時の船員たちの「主食」は魚だったとのこと。これは意外だった。塩漬け肉と乾燥豌豆、それにビスケットだと思っていたから。マゼラン艦隊は太平洋を横断中にひどい飢餓に陥る。マストに巻いた牛皮まで食ったというからすごい。海の真ん中で漁具を持ちながら餓えるとは、当時の人たちはきっと釣りが下手だったのだろうと思う。

アメリゴの話も面白かった。「アメリカ」という名前の元となったあのアメリゴ・ヴェスプッチである。コロンブスの失脚後一躍アメリゴが新大陸の発見者と言うことでヒーローとなり、その後しばらくして、今度はコロンブスこそえらかった、アメリゴはコロンブスの栄光を盗みとった悪者であると弾劾される。しかしアメリカの生みの親という超有名人でありながら、歴史上ほとんど彼の記録が残っていない。このアメリゴとはどういう人物であったのか、ツヴァイクは浩瀚な考證を積み上げながら明らかにして行く。結論は驚くなかれ、いわゆる英雄とはほど遠い実に平凡極まりない人物であったのだ。しかしこの人物にツヴァイクは好感を抱いているようにも見える。平凡な商館傭われ人に過ぎなかったけれど、真面目で公平な人間であったらしい。彼の栄光の元となった新大陸発見のパンフレットも出版業者が勝手に印刷したもので、彼の意図でもなかった。こんな普通の人を周囲が勝手に英雄と祭り上げ、その後勝手に悪者扱いをして、世間の毀誉褒貶に翻弄された人物なのである。ただ、決して新大陸に一番乗りはしていないけれど「新世界」という言葉を最初に使用したことは事実のようだ。その点自分が発見した島を最後までインドの一部であると主張し続けたコロンブスとは大きく異なる。「最初にそれを発見したコロンブスと最初にそれを認識したアメリゴ」というツヴァイクの評価は重い。


ツヴァイク全集〈16〉マゼラン,アメリゴ (1972年)


ツヴァイクの伝記には、この他に「ジョゼフ・フーシェ」、「マリー・アントワネット」、「メリー・スチュアート」などがある。当分楽しめそう。