確かにあの時代の搾取には目を背けたくなるものが多く、マルクスならずとも資本主義・市場主義を弾劾したくなることは事実。上記は表紙の写真だが、ついこないだまでのブラジル金鉱山で奴隷労働を強いられていた労働者の群れだ。気持ちが悪くなる。
いちいち例を挙げないが、始めから終わりまで、この手のお話しでいっぱい。西欧の資本主義の発展もこうした植民地搾取による原始的資本蓄積があってはじめて可能になったという。ヨーロッパ人は本当にワルイ奴らだという気がしてきた。
しかし、である。話を15世紀以降に限定するのではなく、もっと長いスパンで歴史を振り返ってみるとどうだろう。例えば「栄光の時代」といまだに崇められているギリシャ・ローマ時代でもいい。当時の奴隷制度はどんなものであったのか。人口の半分が奴隷であったのだ。奴隷の中には家事労働に従事するめぐまれた奴隷もいたことはいたが、大部分は上記の写真のような凄惨な状況で働かされていた。戦争は勝者による敗者の略奪と奴隷化であった。アテネの将軍はミーロス島に行って、アテネはあなたたちより強いのだから、あなたたちはみんなアテネの奴隷にならねばならない。それはものの道理であると言い切った(ミーロス島住人は抵抗したため老若男女を問わず全員虐殺された)。シーザーがガリアでいかほどの大量虐殺をやったかはシーザーが自分で書いているとおり(ガリア戦記)。アッシリア、エジプト時代まで遡るともっとひどいし、植民地化された方の歴史を見てみても新大陸のアステカ帝国は狂気の殺戮を日夜儀式化して繰り返した。中国においても日本に於いてもいくらでもこの手の例を挙げることが出来る。狂信と暴力はグローバル貿易とは関係のない人間の本性なのではないか。大航海時代はたまたま航海術と造船技術がヨーロッパで飛躍的に進歩したおかげで、いままでは西欧ローカルスタイルのこの種の略奪と暴力が世界に広がりグローバル化して、今までのそれぞれの地域固有のローカルスタイルの略奪と暴力の伝統に置き変わっただけの話ではないのか。
もちろん、彼ら(ヨーロッパ人)の残虐行為を正当化するつもりなぞさらさらないけれど、ヒトという動物は放っておけば必ずこうした行為に走るものであるとの印象を今さらながら強くした。だからこそ牽制機能が必要なのである。個人の暴走は法律で牽制する。国家の暴走は憲法で牽制する。企業の暴走は独占禁止法で牽制する。人類はヒトのこのような性向を知った上で、数々の牽制システムを完成させてきた。それが文明というものであろう。ヒトの知恵もまんざら見捨てたものでもないのである。